日々雑感

ひとりごと

多分とかではなく、普通に駄文。

週末blog。今日は携帯から書いている。ダラダラと語る。勢いで出す。校正はしない。究極の独り言であり、恥晒しである。

宜しければご笑覧ください。

この一週間、私は何処から来て、どこに向かったのか、ということで毎週なんかしら書くことにしている。

しかし慌ただしいだけであんまり濃い1週間ではないので、内容はないよう。

究極の独り言、究極の雑談(雑な談話)。

 

メモ書きだからといって人が見えるところでなんでも書いていい訳では無いので、考えながら後日ところどころ訂正入れると思う。

 

6月××日

先日、ふとテレビを見ると橋したもと府知事が熱く情熱を燃やして生きることについてをかたり、その後に林先生が理想と現実と行動の話をしているのをみてほう、と思ったのでTVerで全編を眺める。

いささかマッチョ過ぎる内容だなと思いながらも、熱を持って生きること、また現実と理想とのマトリクスの話はいい話だと素直に思う。

エリート階層がもつ感覚のなさが現れてるという話を言われるとそうだよな、としか言えないページにすると4ページの新書くらいの内容ではあるけれど。

むしろ、出演者のYouTube等を拝見する機会にはなったので、ありがたいな、とは思う。

 

6月××日

休みを取り、バイクの半年点検に。

点検受けると乗り心地が大きく変わるね。

クラッチにしろタイヤにしろ。

きちんと日々相棒と向き合い愛していかないと。

 

私が勝手に思うことなんだけど、バイクは馬、車は馬車。

意味はそのまんまニュアンスで捉えてください笑

何れにせよ、車は機械の道具・鉄の乗り物だけど、原則は生き物の乗り物と同じで。

無茶や乱暴をすると裏切られるし、変に育っていく。下手したら死ぬ。

かわりに、丁寧に整え、添わせるように使うとちょっとだけいいことがある。

そんな気がする。

 

6月××日

出張で山梨へ。

中央道は好きだ。

色々な都合があり甲府を辞したあとに山間部の集落にもいく。

タクシーを使って行くことが多い場所で車で行くのはたぶん初めて。道を間違えて狭路になだれこむ。この道でいいのかをナビで見ようとするも、ナビには道が示されていない。

挙句の果てには、スマホは圏外。

離合スポットで折り返すも、帰ってから地図を見ると先は河原に突っ込むような道だったので先に行かなくてよかったようだ。

帰りに寄り道をして朝霧を通りさわやかへ。

さわやかにいきたい。

 

6月××日

職場にヘルプが来る。

雑談のなかで出会った言葉

 

・馬には乗ってみよ、人には添うてみよ

・種は撒かなければ、芽も華もでない

 

なるほどな、と思う。

なかなか私には難しいけれど。

 

6月××日

Twitterをみて、遠回しにあー私のことかな、と思える内容がここ数日散見される。

また、ここは私は思い違いをしていたな、とも同時に思わされる。

自分の足元を照らすヒントになればと思いながら、最近その人たち(複数)のツイートはたまにみにいく。

もっとも大抵は楽しいツイートや新鮮な目になれるツイートの方が多い界隈だったり、写真家の人や医者やフォロー外だけど実は知り合いの人や色んな人がいるので結局楽しいツイートをみることになるし、半ば楽しむ方が目的である。

いずれにせよ人はすぐには変われないが、少しずつゆっくり焦らずに、新しい自分を創っていきたい。

創にはキズという意味もある。

きずつきながら、頭を抱えながら。

おずおずと、ゆっくりと。

自分の内面と旅をしながら。

 

旅って、ただどこかに行くだけではなくて、どこかに行かなくても、本とかネットとかでも、雑談でも、なんでも。

自分の考えの殻にない人達に出逢い

異なる考え方に触れて自分を壊されて

響き合わせあうなかで

自分を再生して行くものだと、私は思ってて。

単純にどこかに行ってきましたー、有名スポット「はいちーず、カシャ!コンプリートだぜ!」とはまた違うものを意識したいと思っている(私自体そういう旅行は大好きでで私自身はコンプリート系の旅行をよくする)。

人間関係もたぶん同じ。

なかなかそれが難しいのよーーー。そこまで行かないのどうしても。

まぁ私が旅したいと言っている時は、大抵卑小なidentityをつき崩されたいというポーズをとってる、それだけです。

いい訳ではなく日常で機会をつくっていこう。

言い訳は、やらないための理由作り。

やらないための理由ではなく、やる理由に考えを変える。

 

6月××日

バイクでも車でも、お腹の中からザワっと恐怖感がでる瞬間がある。

人や車が出てきそうな時に多いけれど、それとは別に自分の命を意識する瞬間。

でも、その瞬間には普段にはない感覚が同時にあって。

その瞬間はかけがえのないものだな、と思う。

自殺願望といえばそうなるのか、希死念慮になるのか、というとそういう訳ではなく。

切羽詰まった中で見える何かの実態を見たいという言い方をすれば良いのだろうか。

 

6月××日

ネットで流れてきた1995年の討論番組をみる。

今現在の世相にも応用が出来そう。

あとでやってみる。

 

6月××日

ふとしたやり取りをキッカケに、今はなくなってしまったとあるサービスのことを思い出す。

端的に言えばメーリングリストから始まったという文字数制限がないTwitterみたいな空間。

タイムラインは参加してる皆が見ることが出来る。精々7000のアカウントの中でも活動してるのは400くらい。Twitterみたいな頻度で書く人もいればそうじゃない人もいる自由度が高い空間。

「雑談」を謳っていたので、色んな人が絡み合って雑談をしたりすることもあれば、ひたすらチラシの裏みたいな人もいる。

ある意味昔のTwitterみたいな民度

別に今のTwitterがどうこうということは無いのだけども、ネット上のサービスにあるログなんてものは、アカウント消せば全ては消えるし、サービス会社の意向ひとつでなにもかも見えなくなる。マストなんたらだろうと緑のアレだろうと、UIが変わったら当然雰囲気も集まる人も変わる。あくまでTwitterでのつながりは基本Twitterが無くなったら無くなるんだろうな、ということは意識したいなと思う。

でも、Twitterのおかげで知り得た情報や知り合えた人というのは本当に多いしなぁ…。いなくなった人も多いけど。

なんだかんだ、Twitter、好きなんだね。

タイムラインが高齢化しても、世相が殺伐として悠長な時代では無いと言っても、浮上はそんなにしなくていいから、みんなほのぼのと色々書いたり、日本語ができる人は雑談とか、出来たらいいなぁ。

という話でした。

 

本日も最後までご覧頂きありがとうございました。(いうてここまで読んでる人、居ないっしょや。感想は書きようがないと思うので、読んでくれた人は とろまの金で焼肉 とでも書いてください)